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桐朋大学音楽学部付属 子供のための音楽教室

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音楽史講座

大作曲家とピアノとの出会い 講師 西原 稔

NHK-BS“ぴあのピア”の監修でもおなじみの西原稔先生が、音楽教養講座として皆さまにお届け致します。

ピアノが誕生して約300年。この間にピアノは改良に改良を重ねて今日の楽器に至りました。その歩みの中で、大作曲家はそれぞれの時代のピアノに接して創造力を発揮してきました。大作曲家はどのようなピアノに出会い、どのようなピアノ音楽の名作を生み出したのでしょうか。

『ピアノの始まり』

最初のピアノが試作されましたのは17世紀末で、ピアノの誕生から今日まで約300年以上が経ちますが、楽器としてはむしろ歴史は浅い部類に入ります。最初の楽器を製作したのは、イタリアのフィレンツェに君臨した大富豪のメディチ家に仕えた楽器製作者クリストフォリです。今日彼の製作したピアノ(現在のピアノと区別してフォルテピアノと呼ばれています)は3台残されています。鍵盤楽器でもチェンバロは弦を弾いて音を出すのに対して、ピアノは弦をハンマーで打って音を出します。クリストフォリのピアノと言っても今日の楽器とは音色は大きく異なり、むしろチェンバロに近い音色です。


ピアノのファミリー

鍵盤楽器オルガン、チェンバロ、ピアノ
発音原理チェンバロ  弦をはじく
ピアノ 弦を打つ
チター族板に弦を渡して演奏する原理の楽器群をチター族といいます
琴 サントゥール(ペルシャ)、ツィンバロン(ハンガリー) チェンバロ、ピアノ

クリストフォリのピアノに注目して、新たにピアノ(フォルテピアノ)の制作に取り組んだのが、ザクセンの名職人ジルバーマンです。ジルバーマンはピアノを試作すると、それを大バッハに見せて批評を請いました。バッハは音質やタッチなどのことについて改良すべき点を指摘します。実は、ピアノを最初に手にした大作曲家はバッハでした。

クリストフォリ製作ピアノ

J.S.バッハ

『ピアノの始まり』

音楽の捧げもの バッハ作曲

音楽の捧げもの バッハ作曲

ヨーハン・ゼバスティアン・バッハ(1685-1750)がジルバーマンのピアノを試演したのは1736年頃です。バッハの意見を踏まえて改良したピアノを最初に受け入れたのはポツダムの宮廷でした。フリードリヒ大王はこの新しい楽器をとても気に入り、数多くのピアノを宮廷に備え付けさせました。そして1747年、バッハはポツダムにある大王の宮廷を訪れ、改良されたピアノを演奏します。バッハはこのピアノにとても満足したといわれています。大王の与えたテーマに基づいてバッハは即興演奏を命じられます。後にバッハは「音楽の捧げもの」という題でこの作品を大王に捧げました。この演奏に際して、バッハは「3声のリチェルカーレ」をピアノを用いて演奏したと言われています。


ピアノの発展においてとても重要な意味を持つのが、調律方法です。これまでの調律方法ではすべての調を演奏することは不協和音が発生するなどの理由で、すべての調を用いた作品は作られませんでした。18世紀前期にすべての調を用いることのできる調律法や理論が確立されました。すべての長短調を用いる作品集を最初に作曲したのがバッハです。バッハの採用した調律方法は、現在の等分平均ではなく不等分平均律という調律方法でしたが、いずれにせよ、すべての長短調が演奏可能になったのです。これがピアノ音楽の発展に大いに貢献しました。

『スカルラッティとピアノ』

イタリア・バロックの代表的な作曲家ドメニコ・スカルラッティ(1685-1757)はバッハと同じ年に生まれました。父アレッサンドロはオペラの作曲家として国際的な名声を博しただけではなく、チェンバロ作品も数多く残しています。ドメニコ・スカルラッティはローマにあるサンピエトロ大聖堂の礼拝堂楽長を務めておりましたが、彼はその実力を買われ、1720年ポルトガル王室に招かれます。そこで彼は王女マリア・バルバラの音楽教師になります。そして、そこで彼は生まれたばかりの楽器、フォルテピアノと出会います。すでにポルトガルの宮廷ではフォルテピアノが演奏されていました。後のスペイン時代を含めて、マリア・バルバラは延べ7台のチェンバロと5台のフォルテピアノをもっていました。


スカルラッティはフォルテピアノをとても気に入りました。スカルラッティの数多くのソナタは、この王女のために作曲されたものです。そして、それはチェンバロだけではなく、フォルテピアノでの演奏も意図されています。

スカルラッティ


やがて王女マリアはスペイン王室に嫁ぐことになります。王女のためにスカルラッティは音楽教師として付き添い、彼はスペインに渡ります。スカルラッティのソナタは、バッハの作品とは明らかに様式を異にしており、さまざまな点で新しい時代を感じさせる作品です。ソナタ形式を用いている点もその一つですが、作品がチェンバロだけではなく、ピアノでの演奏も意図されていた点も重要です。

『バッハの息子たちとピアノ』

バッハをベルリンに招くうえで、とても大きな役割を担ったのが、次男のエマヌエル・バッハ(1714-88)です。ポツダムの宮廷で大王の伴奏なども勤め、のちにハンブルクの音楽監督になり、18世紀後半では最大の天才と呼ばれ、ハイドンやベートーヴェンにも強い影響を及ぼしました。


ピアノがすぐに世の中に浸透していったわけではありません。チェンバロがあらゆる場面で君臨しており、ピアノが広まった後でも18世紀末まで広く用いられていました。そのことをよく象徴する作品がエマヌエル・バッハが亡くなる1788年に作曲した、「チェンバロとピアノのための協奏曲」です。二つの楽器の響きの対比がよく分かる作品です。


バッハの末息子、ヨーハン・クリスチャン・バッハ(1735-82)もピアノの発展に貢献した作曲家です。彼はロンドンで活躍した作曲家で、モーツァルトに強い影響を及ぼしたことで知られています。実際に聴いて見ますと、初期のモーツァルトの作品と区別ができないくらいです。

C.P.E バッハ

『ウィーン式(ドイツ)打弦装置のピアノ(ウィーン・アクション)』

18世紀後半から19世紀前半にかけて、ピアノは大きく二つの打弦機構をもった楽器が用いられました。一つはウィーン式(ドイツ式)、もう一つはイギリス式です。ハンマーが弦を打つメカニズムが両者で異なります。分かりやすく言いますと、イギリス式は現在のピアノと同じですので、下から突き上げて打弦します。それに対してウィーン式は撥ね上げるようにして打弦します。イギリス式の方がタッチが重く、それに対してウィーン式はタッチは軽やかで、繊細な表現にすぐれていました。ハイドンやモーツァルト、ベートーヴェン(イギリス式も用いました)、シューベルト、シューマン、ポーランド時代のショパンなどはウィーン式のピアノを用いました。



『ハイドンとピアノ』

18世紀ではピアノの製造方法やピアノという楽器の標準が定まっていませんでした。また、まだピアノに対する評価も一定しない中で、作曲家がピアノのための独自の表現を開拓するのには時間を要しました。ピアノとの接点が比較的遅かったのはハイドンです。全部で52曲のピアノ・ソナタを作曲しましたが、1776年頃に作曲された第32番まではすべてチェンバロ用でした。ハイドンはブロードウッド社製の非常に立派なチェンバロを所有しており、彼は発展途上のピアノよりも完成されたチェンバロを愛好したのかもしれません。1780年にアルタリア社から出版された6曲のピアノ・ソナタ(第35番から第39番と第20番)でやっと、「チェンバロあるいはフォルテピアノ用」と書き記されるようになります。つまり、ハイドンは1770年代末から、チェンバロだけではなくピアノでの演奏も意図するようになります。ハイドンが自宅用にピアノを購入したのはとても遅く、1788年のことです。彼が選んだピアノは、モーツァルトが愛好したシュタインやヴァルターではなく、もっと軽い音質のシャンツの製作したピアノでした。ハイドンの作品でいうと、第49番のピアノ・ソナタはこのピアノのために作曲された作品です。

ハイドンが自宅で愛用したチェンバロ


ハイドンがピアノの魅力に接したのはロンドン訪問においてです。ウィーン式のピアノとはまったく打弦装置が異なり、力強い音質のイギリス式のピアノに接してハイドンは最後の3曲のピアノ・ソナタを作曲します。力強く堂々とした作品で、イギリス式の性能をよく活かした作品となっています。

ハイドン

『モーツァルトとピアノ』

モーツァルトのほうがハイドンよりも早くからピアノに接していました。モーツァルトが最初に接した楽器はチェンバロですが、ピアノの新しい音色は少年モーツァルトの感覚に早い時期から刺激を与えたと見られます。


モーツァルトが初めて接したピアノの一つが、ロンドンでの体験であったと思われます。ロンドンで彼はバッハの末息子のクリスチャン・バッハに会って、その創作に強い刺激を受けます。この当時、ロンドンはピアノ生産の中心地でした。この当時、ロンドンの主要なピアノ・メーカーはブロードウッド社ですが、そのほかにもいくつものメーカーがあり、モーツァルトがイギリスで接したピアノがどれであったのかは分かりません。クリスチャン・バッハの影響は、モーツァルトの3曲のピアノ協奏曲(K.107)などに反映されています。この作品はクリスチャン・バッハのクラヴィーア・ソナタの編曲にほかなりません。


モーツァルトのピアノ作品は必ずしも一貫して創作されたわけではありません。モーツァルトが手がけた最初の大きなジャンルは交響曲でした。加えてヴァイオリン・ソナタが関心の対象でした。このヴァイオリン・ソナタは、厳密には「ヴァイオリンのオブリガート付のピアノ・ソナタ」と題されており、この表記は1781年に作曲された第36番のヴァイオリン・ソナタまで用いられました。しかも初期のK.10-15の作品の表記はもっと厳密に言えば、「チェロも加えても良い」という但し書きをもっており、ピアノ・ソナタとしても、ヴァイオリン・ソナタとしても、ピアノ三重奏曲としても演奏可能という指示でした。

モーツァルトがウィーンで愛用したピアノ


初期のモーツァルトにおいてピアノは主要なジャンルとしてはみなされていなかったように思います。1760年代にピアノ・ソナタを手掛けたことは分かっていますが、これは現存していません。モーツァルトが本格的にピアノ・ソナタの分野に取り組むのはイタリア旅行の後です。1773年にモーツァルトは第13番までの弦楽四重奏曲を完成します。1770年から始まった13曲の弦楽四重奏曲の作曲は、イタリアのサンマルティーニの書法を手本とした作品で、彼の室内楽器楽作品の原点となりました。そしてこの年に第27番までの交響曲が完成されます。この中には有名な第25番ト短調も含まれています。


モーツァルトがはじめてピアノ・ソナタの創作に向かうのはその後の1775年においてです。彼はこの年から翌年にかけて6曲のピアノ・ソナタを完成させます。このとき、彼の創作に大きく関わったのが、シュタインのピアノですが、モーツァルトはこのピアノは所有しておらず、作曲にあたってはクラヴィコードをよくもちいていました。しかし、旅先のこのピアノに接し、モーツァルトは深く魅了されました。彼は、この6曲のピアノ・ソナタはシュタインのピアノの賜物であると述べています。この時期の6曲のソナタは、作曲書法の点において、弦楽四重奏曲での経験が土台となっています。モーツァルトは、この時期(1776年)に3曲のピアノ協奏曲を作曲していますが、これらはザルツブルクの貴族の演奏を目的とした作品です。


モーツァルトはこの6曲のピアノ・ソナタの作曲の後、2年間、ピアノ作品の創作から遠ざかります。1778年に創作を再開しますが、これはマンハイムとパリへの旅行と密接な関連をもっています。マンハイムでは、マンハイム楽派と呼ばれる当時の最先端の宮廷楽団があり、その演奏様式に強く影響を受けます。そしてK.309に代表される、きわめて構成的なピアノ・ソナタが作曲されます。その作曲手法は、それ以前の6曲とはまったく異なります。この時期のピアノが何であったかは特定されていませんが、シュタインのピアノ、あるいはジルバーマンのピアノであったであろうと見られます。その後、就職先を求めてパリに向かいます。パリでは「交響曲第31番『パリ』」が作曲されますが、この時期にピアノ・ソナタイ短調(K.310)が作曲されます。この当時のパリはピアノ製造の面ではウィーンやロンドンよりも立ち遅れており、イギリスやウィーンおよびドイツのピアノが用いられていました。


1781年にザルツブルク大司教のもとを離れ、自由な音楽家としての活動を選択し、モーツァルトはウィーンに出ます。このウィーン時代における彼のもっとも重要な生活の資は、ピアノ協奏曲、そして弟子との共演で行う2台ピアノのためのソナタでした。ピアノ協奏曲第11番以降がウィーン時代の作品になります。その一方で、ピアノ・ソナタの創作から遠ざかります。ウィーン時代で彼が用いたピアノは、ヴァルターのピアノでした。モーツァルトは、シュタインの軽妙な音質とは違って、重みのあるこのピアノを購入し、ウィーン時代はもっぱらこのピアノのみを用いました。



モーツァルトは1784年から翌年にかけて4曲のピアノ・ソナタを作曲しますが、ウィーン時代のモーツァルトのピアノ作品の主要ジャンルはむしろ変奏曲でした。モーツァルトのウィーン時代の器楽創作の絶頂期は1784年から86年の時期で、ピアノ協奏曲の創作が集中して行われております。またピアノ作品の数も多数にのぼっています。変奏曲が多いのは、オペラの旋律を用いた変奏曲が人々に愛好されたことによります。その点、ソナタは抽象的で、難解な部類に属しました。その難解なソナタの代表は、1786年に作曲された「ソナタ ハ短調」((K.457)でしょう。


モーツァルトの接したピアノで注目されるのは、足鍵盤付のピアノです。モーツァルトはピアノ協奏曲第20番の作曲ではこの足鍵盤付きのピアノの使用を念頭において行ったと見られています。この足鍵盤付のピアノの発想は19世紀にも登場し、シューマンは足鍵盤付のピアノのための作品を作曲しています。


1786年を境にしてウィーンの聴衆はモーツァルトから離反していきます。その理由はモーツァルトの音楽が次第に難解で、高度な内容のものになったことによります。ピアノ協奏曲の作曲が行われなくなるのもそのためです。有名な「ピアノ・ソナタ ハ長調」(K.545)は、彼の独創的な作品と言うよりも、ウィーンの当時の軽妙な趣味に合わせた書法です。モーツァルトは1787年にウィーン宮廷室内楽作曲家に就任して、定収入を得ることになりますが、それにもかかわらず借金が多くなるのもこの頃からです。1787年から亡くなるまでの期間のピアノ作品で重要なのは、「4手用ソナタ ハ長調」(K.521)と、最後のピアノ・ソナタニ長調(K.576)でしょう。この二つの作品とも、高度な演奏技巧と作品理解を求める作品で、ピアノ・ソナタはフーガ風の書法を用いております。

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